祭禮の中断

市政35周年記念 市役所新庁舎竣工三社合同祝い渡御の入魂祭の模様

浦安の祭は、昭和36年(1961年)から昭和49年(1974年)まで13年間、中断されたことがありました。
理由のひとつに、昭和36年(1961年)の神輿で家屋に突入した事件があります。
当時の浦安の人口は約1万7千人。人口も祭禮の規模も小さく、寄附で賄われる祭は、寄附をしない者は神輿を担げないと言われていた頃です。
この年の豊受神社の大祭で、寄附が少なかったり理解の少ない商店や屋敷に神輿で突入し、神輿を軒に引っ掛けて家を破壊するなどの事件が起こりました。
当時を知る方の話では、祭の群衆に神輿が見当たらず、辺りを見回してみると神輿が家の中に放り込まれていた状況だったようです。
担ぎ手達は、「次は○○だ」と暴徒化していた訳ではなかったようですが、先頭の誰かが誘導していたのか、家や商店に吸い寄せられるように向い、突入する寸前にスっと前方の担ぎ手が退け、そのまま神輿を放り込むような状態だったといいます。

この騒ぎが堀江地区にも伝わり、堀江でも同じような事件が起こってしまいました。さらに猫実地区では、豊受神社の近くにあった交番へも突入してしまったそうで、これは理不尽な取り締まりが厳しかった交番への不満の表れだったようです。
夕方には、猫実5丁目付近の境川にかかる橋の袂で、川をはさんだ猫実側と堀江側の神輿が担ぎ合いになり、エスカレートした双方の群衆は橋を超えて喧嘩沙汰になってしまったそうです。

こうした出来事が積み重なって、その次の祭禮時には警察から渡御許可が得られず、やむなく中断となってしまったのです。
大祭の中断を受けた若衆達は、二度と同じような過ちは起こさないとの固い意思のもと、警察への謝罪と大祭復活の要望を繰り返し行い、昭和49年(1974年)に浦安の大祭が復活しました。
しかしながら、こうした過去の経緯から、神輿渡御が他の神社の神輿と一緒になるとトラブルの元になると懸念され、3神社の神輿渡御の順路は意図的に神輿どうしが遭遇しないように設定され、現在に至っています。

浦安は、明治22年(1889年)4月1日の町村制の施行に伴って堀江村、当代島村、猫実村の3村が合併して誕生しました。そのため、浦安村にはそれぞれの地区に氏神様を祀る鎮守の杜があり、現在の大祭の基盤となる3神社が存在するのです。
3神社の氏神様のもと、それぞれの地域で、大祭の日程を合わせて祭禮が合同で行われてきました。
本来、神社の例祭日に合わせて10月に挙行する祭禮を6月に行うことになったことから、「三社合同臨時大祭」と呼ばれていた時期もありましたが、平成12年(2000年)には神社庁に浦安の3神社の例祭日の変更を届け出て、正式に6月を例祭日と変更し、名称も「浦安三社祭」に改称。さらに平成24年(2012年)には「浦安三社例大祭」と改称しました。
かつては諍いの元とされた神社同士の関係も、現在では豊受神社、清瀧神社、稲荷神社がそれぞれ競い合いながらも、浦安の祭禮の繁栄を願う3社の一体感のあるものへと移り変わってきています。
平成23年(2011年)に開催された浦安市の震災からの復興祭では、3神社の氏子総代からの要請を受けた3神社の若衆が合同で一基の神輿を渡御するまでになり、平成28年(2016年)には市政35周年記念 市役所新庁舎竣工三社合同祝い渡御という形ではあるものの、念願の3神社、5基の神輿が集うまでに至ったのです。