豊受若衆
   2020年浦安三社祭まであと 

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お神輿見物のときに、ちょとご注意ください
御神輿は、もともとの由来がご神体を乗せて移動する乗り物だったため、上から見下ろすことは神を見下ろすことになることから御神輿は高い所から見下ろしてはいけないと言われています
このため2階の窓から見物していると、「上から見ちゃだめだぁ〜!」って言われることがあります。
また以前は、宮神輿は女性がかつげなかった時期もあり、宵宮の入魂祭も本来は境内に女性は入れない神事となっています
上から見てはいけないという仕来りも現代の高層住宅化でなかなか全ての方に理解をして頂く事も難しく若い衆や世話人の方達が注意をする光景も少なくなってきています


猫実の豊受神社の神輿は二基。一基は「塗り」、もう一基は「白木」のつがいです。
この二基の神輿は、「西組若衆」「東組連合」の若衆が各一基をそれぞれ受け持ち、1日交代で担ぎます。この二基のコースはもちろん一緒で、二基の宮神輿を先頭に各町内会の神輿が後に続きます。



▼白木の神輿
担ぎ棒が白木の神輿を「白木」と呼んでいます。
白木の神輿の初渡御は大正14年。この御神輿は寄附で頂いた神輿だそうで、当時、浅草に住む浦安に縁のあった事業家の方々が「祭りにゃ神輿が必要だろ」って事で有志を募って作ってくれたそうだ。白木の花棒の先に「東京」って彫られているのはこの為なんだそうだ。
塗りと比べると白木の担ぎ棒が短かった為、平成16年の祭から担ぎ棒の花棒を全長で約3尺長くし、花棒にあわせて脇棒も長くしています。特に脇棒が長くなり今までは3〜4人しか入れなかったのが、6〜7人位入れるようになり前後で6人分位長くなっています。
白木の神輿は行徳の後藤神輿店(大正14年)で造られ、寸法は3尺。




▼塗りの神輿
もう一方の神輿は担ぎ棒が黒く塗っられ「塗り」と呼んでいます。
豊受神社の御神輿は、どうやら大正14年の祭の時は白木1基だけだったようなのです。
当時の事を知っている方を探すっと言っても今から80年も前の事で、当時の若衆は他界された方が多いので真相はなかなかわからない事があります。
大正14年の祭に参加をされた方に話しを聞く事が出来、 当時の事を思い出してもらったところ、やはり大正14年の祭の時は白木1基だけ。
その後、神輿が1基じゃ可哀想だって事で、もう1基造ろうじゃないかって事になったようだ。その先頭にたったのは若衆宿(青年団のような組織)で代表をやってた方で、地元のみんなに寄附をお願いしてまわったそうです。
ただ神輿は高価なものなので寄附を募るのも大変だったようです。
塗りの神輿の製作を頼んだのは行徳の浅子神輿店。浅子神輿店でもこの依頼を受けて白木の神輿に見劣りがしない神輿を造ろうという事で賛同をしていただき、それこそ商売度外視で作り上げられた神輿のようです。
平成16年に浅子神輿店にも当時の話を聞いてみたが、当時の資料もすでになく、代も変わってしまっているので詳しくは分からないとのことでした。神輿には「大正14年新調」、当時の氏子衆の方々の氏名も残されいるが、初渡御はどうやらその後のようです。
浅子神輿店(大正14年)で造られ、寸法は3尺。




灰色の生地に波のような柄、背中には巴が描かれた豊受神社の宮半纏。
この半纏が神輿渡御の警備役員用として西組若衆と東組連合それぞれに配られたのは昭和53年が最初になります。
現在の行徳地区などに見られるように昭和36年頃までの浦安の祭りも白のダボシャツに白の半股引の白装束が一般的でした。
当時は、お祭りの都度に豊受の神様が町内を見守ってくれるという神聖な御神輿を担ぐ意味合いから白装束だったとのことです。また一方では、消防団や若い衆宿単位で半纏を新調していた所もあったようです。
昭和49年に大祭が復活してからは祭禮に参加をする際の装いの多様化が進み、警備上の目印となるように宮半纏が誕生しています。
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